41377_100000849127367_1839_n毎年毎年最高気温がぬり変えられる中、もうしばらくでお盆がやってきます。
しばしの休息中、先祖や自分の来し方を振り返ってみる良い機会でもありましょう。皆さんは、どんないきさつで航空部に入部することになったのでしょうか。十人十色ながら、初めから目指していたにせよ、モノの弾みで係わってしまったにせよ、そこには自分の意思では図れない「縁」が働いているに違いありません。
私の場合は、親父が飛行機好きであったことが根っこにありました。たまたま通りかかった工学部のグラウンドで実物のグライダーを目にし、ほとんど吸い込まれるように入ってしまいました。聞いた親父は、何の喜びも驚きも見せず問いただすでもなく、「ふ~ん、そうか…」で終わりでした。言外に「やっぱりお前もな…」だったハズです。
ってことで、「私にとって親父は何だったのか」と前置きして少しばかり書かせていただきます。


親父は私に、直接的には何も教えてくれませんでした。
だけど、広い意味で多くのことを学ばせてはくれました。
人の弱さも、どん底の時の態度も、上手くいった時の喜びも。
「去るものは追わず、来るものは拒まず」とか
「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」とか…
思い返してみれば、含みのある口癖を耳に残していってくれたものです。
そして、いつも貪り(むさぼり)のない生き方をしていたように思います。


23年余り前、阪神大震災の2ヵ月後に親父は亡くなりました。
生まれは福井の山奥の農家の三男。
小学校を出てすぐに田舎を飛び出し、1人で大阪に出てきたらしいです。
食べるために毎日毎日、日雇い労働を続けて暮らしてましたが、いつか飛行機に乗りたいと、幼いころから憧れていたらしく、少しばかり出来た蓄えで部材を集め、掘っ立て小屋を見つけて、見よう見まねで飛行機のようなものを作り始めていたところ、近所の人に怪しまれて警察に通報されたようです。
「あのな、ホンマに飛行機作りたかったら、先に勉強せなあかんよ」と。


それからは、本を借りては返し、寝る間も惜しんで読みあさり、学歴はゼロですが、大阪大学の夜間講義を聴講しにも行ったとのことです。
初の国産旅客機「YS-11」の開発者であり、鳥人間コンテスト初期の審査委員長でもあられた、木村秀政さんの講義も聞いたと話してました。
飛行機やグライダーの模型を、自分で設計して材料から作り上げる様子も、飛ばしに行く時も連れ出されて、当たり前のように見ておりました。
若いころ、グライダーメーカーのシェンプヒルト生みの親であるウォルフ・ヒルト氏が、有名な「ミニモア」を携えて来日し、デモ飛行した現場を見に出かけ、それがキッカケで、ガルウイング翼が大好きになったようです。

ヒルト氏について

 


戦時中は、今も明石にある川重(当時は川崎航空機)に勤務し、戦闘機のエンジンを作る現場技術者の一員として働いていました。
色々なアイデアを生み出し、もらった賞状や表彰式の写真が残っています。
しかし、終戦とともに航空産業は停止し、有志数人で生活器具の製造を始めました。
それが、今も私が関わっている線材製品製造業界(金網やカゴ類など)でした。
徹頭徹尾、サル真似を嫌い、自分が編み出したアイデアで勝負する仕事ぶりは、今の私の体にDNAとして伝わっていると、そこだけは自負しています。


でも、恩返ししたいと思った時には、もう居ないんですよね・・・