神戸大学航空部OB・OG会から ひよどり声 ♪♪ が神戸大学航空部OB・OGの方々へ、航空部やOBの方の最新ニュースをお届けします。メーリングリストもあわせて用意いたしました。メーリングリストに参加されるには、本ブログの「Messages to us」にてご連絡いただくか、メールにて hiyodori-owner@ml.kobe-u.com へご連絡ください。

2015年01月

★ 橋本和典さんのOB短信 その2 ★ 三田式3型改(JA2141、六甲)の思い出

三田+ASK三田式「改無し」は名機、「改有り」は今一歩と言われていますが、これは重心前方の側面積拡大によるものと推測しています。ジャンボジェット機と同じです。「改無し」から垂直尾翼の増積も実施しているようですが、風防拡大は流れを乱す可能性も有ります。後席後ろ辺りに気流子(気流の流れを観察する糸)を貼ってみたら面白い結果が観察できたかもしれません。
三田の陸送中に追突されたことあります。ノーズが突っ込んで伴走していた野沢家の自家用車を壊してしまいました。(野沢くん、ごめんね。) 衝突の衝撃で胴体保持用の横棒が折れ、胴体側面の鋼管が曲がってしまいました。ザイクロをやって、曲げを戻して、補強の鉄板を溶接したと思います。ANAの整備工場だったかと。胴体前方の羽布を剥がしての作業ですので、鋼管修理後に貼り戻す作業を実施しました。羽布の重ね合わせ部分は縫うのかと思っていましたが、安本整備士の指示でドープの接着力だけで貼りあわせました。ドープから鋼管を守るために、鋼管にマスキングテープを巻きました。縦貼り案の福島さんvs巻貼り案の私で比較しましたが、縦貼りの方が綺麗でした。修理後の検査をやったかどうかの記憶は有りません。
その他の三田の思い出を綴らせていただきます。

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★ 部誌「六甲」
部誌「六甲」の表紙のイラストを描きました。部誌「六甲」は、いつから作成し始めたのでしょうか?
★ 三田デザインのTシャツ
三田のTシャツを作成しました。デフォルメ三田のデザインです。あまりオシャレではないですね。渡辺さんから「ヘタだ」と言われたと思います。
★ 三田のソリッドモデル
三田のソリッドモデルをつくりました。それに組み合わせる学連パイパーも作成しようとして、20数年間そのままです。

★ 橋本和典さんのOB短信 その1 ★ ASK13(JA2336、六甲Ⅱ)の導入

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昭和55年、私が1回生のころ、神戸大所有機 三田式3型(JA2141)延命のためにオーバーホール作業が八尾空港で実施されました。オーバーホールでは羽布の張り替えや構造材の確認・修理などが行われるものと思っていましたが、現実として予算は100万円と限られており、作業はピン類の交換などに限定し、部員が八尾空港まで通い細かな作業の手伝いを行いました。私も頻繁に通い、細々した整備作業で楽しいひと時を過ごしましたが、部から交通費の補助もなく金銭的にはとても辛かったことを記憶しています。
昭和57年、私が3回生で主将のころは、三田式を合宿に持って行くとあまり良い顔をされなくなってきました。当時の複座機の主流はASK13やL-13ブラニックに移っており、操縦のやや難しい三田式は訓練生に敬遠されがちで、神戸大部員は優先して?三田式に搭乗していました。
木曽川合宿の帰りに新幹線で学連 北尾教官とご一緒となったことがあり(鰻弁当を御馳走になりました)、勢いで「そろそろ神戸大も新機体の導入を考えています」とお話しをしたところ、明らかに「無理だろ」という顔をされました。このことにも奮起し、新機体の導入を考え始めました。また、この年の12月に日本航空協会が行った三田式の主翼破壊試験により強度不足が判明し、この後、三田式を飛行させることはできなくなりなした。残念!個人的には、三田式のオーバーホール作業の努力が吹っ飛んだ!と思いました。これを機に、新機体の導入を真剣に検討していくこととなりました。
新機体導入の交渉を大学と開始しましたが、これまでは「体育会予算のほとんどを費やす」と苦い顔で断られ続けていました。当時 航空部長の赤川先生が「強度不足の機体で学生を訓練させるわけにはいかない」とご意見をだされ、赤川先生の強力な実行力で予算化されることとなりました。
機種選定では様々な意見が有りました。赤川先生からは「最近は、学生の4年間では乗れないような高性能機の導入が多く疑問に思っている」というご意見、1年後輩の野沢君からは「高性能機が有るから、それに乗ろうという励みになる」という意見などでした。自分自身は「自分が乗れない機体を導入するなんて」と思っており、ユビ社ASK13をとても気に入っていました。当時、既にプラスチック機が導入され始めていましたが、プラスチック機に対しては整備上の不安から鋼管羽布貼りの機体としたかったこと、プラスチック製の複座機としてはグローブG103ツインIIがありましたが、ツインIIよりASK13の方がラダーのフィーリングが良いことから、ASK13の導入を進めていくこととなりました。ただし、当時でもASK21は既に販売されており、ASK21の搭乗経験が有れば、選定機種は変わっていたかもしれません。
新機体の名称は三田式「六甲」の姉妹機という位置づけで「摩耶」と命名したかったのですが、OB諸氏の猛反発を受けて断念しました。最終的には「六甲Ⅱ」と命名されました。船や飛行機は女性名詞であり、男っぽい「六甲」より「摩耶」にしたかったというのが本音でした。機名のロゴは、関西学院大学の同期の女子部員が通っていた習字の先生に書いていただいた文字からマスクを起こして模型用の水性アクリル塗料で筆塗りした記憶があります。「摩耶」も準備しておりましたが、もちろん使用されることはありませんでした。
大学への機体の搬入も決まり導入式典では、赤川先生にお願いし、応援団にも参加いただきました。多くの予算を費やした学校を代表する機材ですものね。式の様子は神戸新聞に掲載されました(写真中)。垂直尾翼には日の丸のステッカーが貼ってありました(写真左)が、真っ先に剥がしていた渡辺さんが印象的でした。そういう時代でした。
当時は複座機の共同利用が進んでおり、各大学が交代で木曽川滑空場に複座機を常駐させていました。なかには自大学の所有機を出し惜しみする大学もありましたが、神戸大としては国費で購入した練習機でもあり他大学航空部へも積極的に貸し出し、神戸大学の訓練生もその合宿に参加することにより技量を上げることを考えていました。しかし、まさか最後に学連の共有機になるとは思いもしませんでした。
鋼管胴体木製羽布貼翼の機体は、メンテナンスしだいで限りない寿命を持つと聞いています。まだまだ飛ばして欲しいものです。

★ OB短信 ★ 橋本和典さんから多くの記事をいただきました

橋本和典さんにブログへの記事掲載をお願いしたところ、多くの原稿をいただきました。
これから数回に分けて掲載していきますので、ご期待ください。その前に、橋本さんの近況を紹介します。
img01橋本さんは昭和55年航空部入部し、現役時代は整備士として活躍されました。卒業後、三菱重工業に入社し、「平成の零戦」と言われるF-2の開発に携わられました。
F-2は、米国のF-16を、日本の運用の考え方や地理的な特性に合わせ、日米の優れた技術を結集し日米共同で改造開発した戦闘機です。昭和63年にFS-Xとして開発に着手し、平成7年に初飛行、12年度に開発は完了しました。F-16からの主な改造点は、旋回性能の向上のため主翼面積を増やし、軽量化のため先進材料や先進構造を取り入れたこと。また離陸性を高めるためエンジンを推力向上型に変え、さらに最新レーダーなど、先進の電子機器を採用しています。
(航空自衛隊ホームページ (
http://www.mod.go.jp/asdf/equipment/sentouki/F-2/)より引用)

橋本さんは、F-2の飛行制御システムにおける飛行制御則の設計を担当されました。パイロットの意見を集約し、航空機自体が持っている性能を最大限に引き出し、パイロットが満足するように改修を行う作業です。現役パイロットからは「芸術的な飛行制御」と好評を得ているそうです。橋本さんからF-2に注目していただきたい点として、
① 米国からソースコードの提供はなく、独自の国産制御飛行則をつくりあげたこと
② F-16とは異なるオリジナルの塗装色
があげられています。
詳細は、航空情報2012年5月号増刊に、三菱重工開発者インタビューとして紹介されています。

左は現在、右は学生時代。
cats5現役

年賀のご挨拶  ♪♪ 宮本OB会長より

2015航空部年賀/ミニモアミニモア/複葉機で曳航中










航空部OB・OGの皆さま、明けましておめでとうございます。
新たな年に向けて、どのような希望を描いておられるでしょうか。歳を重ねるほど時の流れは早く短く、殆ど何もできないまま一年近くを過ごしてしまいました。
さて、一足先にご案内の通り、来る2/14(土)にOB会が開かれます。互いに誘い合うなり、またお1人であっても、思い切って同士の輪に加わって下さいますようお願い致します。主将の古本さんは現在ソロ10発を越えて自家用ライセンスを視野に入れ、機体係の三木君も初ソロに出たとのこと。声援に加え、資金の積立てもOBの大切な務めとの思いを胸に、ご寄付の方も併せてご協力よろしくお願い申し上げます。
掲載の年賀写真は、一昨年9月の訪独時に撮った「空の貴婦人」と呼ばれる名機ミニモアで、現存する飛行可能な機体は片手で数えられる位と聞いています。現在日本でもずいぶん飛んでいる高性能機、ディスカスシリーズを製造するドイツのシェンプヒルト社が、1930年代に開発したもので、翼が透けて見える、鳥が舞うような容姿に惹かれます。写真は同社の社有機で、シンボルマーク(
www.schempp-hirth.com/)にもなり、当時すでに滑空比28を獲得し、日頃使用しているASK13と変わりない性能には驚きですね。
私事ながら、阪神大震災の2ヵ月後に他界した私の親父は、幼い頃からの飛行機好きが高じて、戦時中は明石の川崎航空機(現在の川重)で戦闘機の製造に携わっていました。製造が禁止された戦後も、趣味で模型飛行機やグライダーを作っていたのを、私は身近に見ておりました。そんな中、ミニモアと同じガルウィングと呼ばれる翼を持つグライダーを自作していて、まだ何も知らない小学生の私に、「俺は、カモメのようなこの翼が大好なんだ・・・」と言っていたのを、今でもハッキリと覚えています。戦前、設計者のウォルフ・ヒルトが、ミニモアを含む何機かのグライダーを引っさげて来日し、2ヶ月余りの滞在中に、東大阪にあった盾津飛行場で行ったフライトを見に行って刺激を受けたようです。
親父は生きていれば現在101歳の丑年ですが、不思議なことに、以前書きました航空部初代部長の赤川先生が親父より一回り下の丑年。続いて初代副部長の瀬口先生がもう一回り下の丑年。そして私がそのまた一回り下の丑年です。私が航空部に入ってグライダーに乗るようになったのも、人知で図れぬ巡り会わせのような気がします。
 
とりとめのない話ですが・・・
神大航空部の日常
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