神戸大学航空部OB・OG会から ひよどり声 ♪♪ が神戸大学航空部OB・OGの方々へ、航空部やOBの方の最新ニュースをお届けします。メーリングリストもあわせて用意いたしました。メーリングリストに参加されるには、本ブログの「Messages to us」にてご連絡いただくか、メールにて hiyodori-owner@ml.kobe-u.com へご連絡ください。

無くなったもの

ドイツの空から ♪宮本OB会長

会長の宮本です。

シリーズ 「無くなったもの」 は前回で終わりにし(また臨時で何か書くかもしれませんが)、次のシリーズ 「ドイツの空から」 の予告です。

 

D-9025b-vert実は私、2008年、2012年、2013年の三回、仕事と私用を兼ねたツアーで、ドイツのグライダーを含む航空関係の施設やメーカーを訪ねました。
初回は、グライダースポーツ発祥の地であり、グライダーのメッカとも呼ばれるワッサークッペに行きました。自分の操縦で40分ほどのソアリングと、施設内の博物館と、近くにあるシュライハー社を見学させてもらいました。

二度目の2012年、再度のワッサークッペでは、操縦せずに後席でビデオを撮らせてもらい、飛行クラブに属する日本人会員にも会って貴重な話を伺うことができました。そのツアーの途上に、横綱メーカーのシェンプヒルト社にも寄っています。

三回目の2013年は、EUではおそらく最大規模と思われるクラッシック航空イベントを見物しました。会場と同じ街にシェンプヒルト社があって、さすが!というか、歴史的なグライダーも多く飛ばしていました。

私の予備知識は乏しく、短い滞在でもあり、大雑把なことしか書けませんが、時に脇道にそれつつ、経験や感想を、何回かに分けて記してみたく思います。第1回目は、 「ワッサークッペ」 の予定です。
写真(サイトから拝借)は、DFS Rhonsperber という機体で初飛行は1935年。なんと美しい!DFSは、ドイツ滑空機研究所(Deutsche Forschungsanstalt fur Segelflug) の略称です。

ご興味のある方は調べてみてください。

無くなったもの 【その8-③】 ~ JA2141運用編 ~

製造も終盤に近づいた頃、メーカーの太南工業を訪ねました。製作に使う色々な治工具類や工程を見せてもらいましたが、一番印象に残っているのが現場チーフの一言。「この機体は非常に上手く作れました…」と。

つまりは、結構バラツキがあって出来不出来が大きいと言う意味でもあり、機体によって癖があり、性能も一定していないとの評判も耳にしていました。ですが幸運にも、それが気休めのセリフでなかったことが、運用が始まってから判明することになります。

実際に、JA2141に搭乗した多くの教官が、「この三田はバランスが良くて飛び易いね…」と。福井の飛行機曳航で平行して飛ばした大工大のASK13(JA2108)と飛行時間を比べても、全く見劣りしませんでした。

私が最も数多く飛んだ(300回以上)のもこの機体で、ラダーの効きがやや甘いことさえ飲み込めば実に素直で、失速でも、速度を抜いた深いバンクでも、荒れた日や接地操作でも、不具合を感じたことはなかったですね。

自分で言うのもなんですが、手足のように思い通り動いてくれる気さえしました。セカンドソロを、教官のカン違いで、飛行機曳航で出してもらったのもこの機体です。それも撤収フライトで、離脱した曳航機が真下を右に左にレージーエイトを見せてくれたのが忘れられません。もちろん直敬さんの愛嬌ですが、ソロに出した教官(大工大の川端さん)が後で叱られたかも…

私が神大で最初のC章を取らせてもらったのも、吉井川で1400mまで上がって丸い虹を見れたのも、この2141のお陰です。C章のときは、部員達の手で、生涯でただ一度の胴上げを味わわせてもらいました。

二機目のJA2336にバトンタッチするまで、神大の看板を務めてくれましたが、昭和60年、主翼の強度試験を行った同型機が、設計限界に満たない荷重で破損したのを契機に、同機の全てが運行禁止に追い込まれてしまいました。はかない運命をたどった機体ですが、多くの航空部員を育てた最後の純国産機として、歴史に刻んでおきたいモデルです。  合掌

20081108150217749_0017-tile
左上:吉井川、右上:福井、左下:木曽川
右下は現在の木曽川滑空場です。
砂だらけの滑走路から、川に沿って木が繁り、一面、緑でおおわれるようになりました。

無くなったもの 【その8-②】 ~ JA2141導入編 ~

** 前編は、こちら↓をごらんください。 **
 
無くなったもの 【その8-①】 ~ JA2141資金編 ~

20081108154717623_0005
メーカーの太南工業が相模原にあった関係で、試験飛行は関東で行われました。怪しい記憶ではありますが、一発目は調布飛行場(旧館林飛行場だったかも?)からセスナ172で曳いて離陸、操縦者は立教大学出身の教官だったと聞いています。

私は、曳航機に同乗して飛行中の様子を見物させてもらい、宙返りをやっていたのはハッキリと覚えています。続く二発目の操縦は、長く使われた標準テキスト「グライダー操縦の基礎」の著者でもある原田覚一郎さんでした。私はパラシュートを背負って後席に乗せてもらいましたが、原田さんはかなり肥満体で、やはりパラシュートを付けて三田の狭い前席に座ると、操縦桿がお腹につかえて一杯まで引くことができず、「しょうがねえな。まっいいか…」で、発進したことが忘れられません。さほどシビアな飛行もせずに妻沼に降りましたが、その後どうしたかは忘れてしまいました。写真もいくらか撮ったハズですが、どこへいったか今のところ不明です。

後日、メーカーまで機体と専用トレーラーを引き取りに行かれたのは先輩達で、亡くなられた辻さん、中村さん、鵜川さん?、他?…定かではありません。

さて次の問題は置き場ですが、ここでも赤川先生や瀬口先生のお陰で、工学部機械棟の中庭に建っていたトタンぶきの倉庫?へ押し込むことになりました。

建物はボロく、出し入れもやりにくかったですが、それでも我々にとってかけがえのないお城。

集まっては引っ張り出して、組んだりバラしたり磨いたりと、愛しき日々でしたね。

再度一服して運用編に入りますので、今しばらくのお付き合いを。
20081108154717623_0002-tile

無くなったもの 【その8-①】 ~ JA2141資金編 ~

現在の航空部が出来てから5年ほどのこと(昭和46年前後)、人も機材も、多くを借りモノでまかなってきた航空部は、肩身の狭い思いを脱すべく未来への希望を託して、部長の赤川先生の力添えをテコに、自前の機体を購入する計画を立ち上げました。機種は必然的に、その頃の複座スタンダードである国産機の三田式3型改に白羽の矢が立ちます。

そうは言っても、250万円もの購入費用を大学がおいそれと認めてはくれず、受益者として100万円余りの自己資金を作りだす努力が始まりました。他校でも資金源にしていたダンスパーティや、稼ぎの見込める集団バイトに精を出すことになります。

今でもよく覚えているのは、萩下先輩の家業から提供していただいた建設補助作業で、変電所の外周を植木からコンクリート壁に作り変える工事でした。現代のように機械を駆使することなく、ツルハシやスコップを使って人力で植木を抜き出し溝を掘ります。切断刃を大きなハンマーで直接たたいて鉄筋を切り、曲げるのも手作業、基礎に入れる鉄筋を網目状に固定するのも針金と手工具でした。

もうひとつは、催し物会場の設営を請け負う業者の現場作業でした。今も三宮の南、阪神高速の脇にあるサンボーホールで開かれる大呉服展の準備に千枚もの畳を敷き詰めたり、大丸百貨店の催し物フロアの模様替え作業(閉店から11時ごろまでが勝負)などなど、懐かしく思いだします。

とは言え、当時キツイ作業でも日当3000円ほどですから、部員が作り出せるお金には限りがあります。そこで、無い知恵を絞って思い至ったのが、部員の父兄からの借金でした。本人がただ貸して欲しいと訴えるだけでは納得してもらえないので、やはりまた赤川先生にお願いして、グライダー導入の目的や返済計画を書面にしたためていただき、それを携えて部員それぞれ父兄を説得して回りました。それでもギリギリで、後席のバリオメーターが装備できず、(他にもあったかな?)後年、関東にある東京航空計器まで買い出しに行ったのを覚えています。

ここから先は、結果的に赤川先生の面子をつぶし、恥をさらすことになってしまうのですが、時効と思って告白します。実は、借金はほぼ返せていません。

いいように解釈すれば、貸していただいた父兄からの督促もなく、代が替わる間にズルズルと流れ流されて、あきらめてしまわれたと言うことでしょうか。

そのころ部を仕切っていた私が一番の張本人と言われても返す言葉がないですね…

そんないきさつで、このブログの表紙にもなっているJA2141号機が飛び始めました。

ここで一息入れてから導入編に移りたいと思います。

20100307093916081_0016-tile【左上】【左下】
昭和40年代の工学部での機体組み。
食堂がまだありません。
【右上】
昭和50年代の工学部での機体組み。車が増えました。
【右下】
JA2141前席計器盤。文中の買い出しされたバリオは前席かと。後席に計器はありませんでした。

無くなったもの 【その7】 ~ 助教 ~

私が現役の頃は、本来の教官が現場に滞在して管理監督することを条件に、将来教官を目指す自家用ライセンサーが、主として飛行回数の少ない練習生を対象に、教官を代理する形で後席に搭乗して、教官になるための経験を積む「助教」の制度がありました。その後数年の内に制度は廃止されてしまいましたが、幸いにも私はこの制度によって貴重な経験を積ませてもらいました。

残念ながら事情が許さず、教育証明を取得できないまま航空部を去ってしまいましたが、人を教育することの難しさや、一律には対処できない生の現実を学べたことは、社会人になってからの大きな土台になっています。教官でもない私に言う資格はないかもしれませんが、何より安全性を優先する社会情勢の下、ハードルを高くしすぎることが、グライダースポーツの普及を妨げる大きな要因になってはしないかと、懸念しないでもありません。理屈抜きに完璧を追求する日本人に対して欧米人は、理想には届かない現実への処方と、完成度を高めるための努力を、分けて考える思考が、首脳メンバーの根元にあるように感じます。自己責任と管理責任の境界が日本とは異なるのですね。

規律に厳しいと言われるドイツでさえ、非現実的な車の制限速度は設けませんし、ワッサクッペなどの滑空場や、他の航空イベントでも、要所は押さえながらのおおらかな運営スタイルでした。

我々の活動にも、世界の現実を学んで生かす工夫を望みたいですね。

20081108150217749_0016-tile
昭和40年ごろの吉井川滑空場での風景。
なお、助教制度は昭和55年ごろに廃止となりました。

無くなったもの 【その6】 ~ 副部長と瀬口先生 ~

追悼文集3-tile
【瀬口靖幸先生 追悼文集】
写真右上 裏表紙の瀬口先生直筆の文章は、
 Die kunst ist lang, Und
       kurz ist unser Leben

です。
これは、ゲーテの戯曲「ファウスト」でのヴァーグナのせりふで、
  
学芸はとこしえにして、われらの生は短し(森鴎外訳)
という意味です。







無くなったのと亡くなったのと両方です
が、前に記した赤川先生が部長の頃に副部長をして下さったのが、同じく工学部機械工学科の瀬口靖幸先生でした。先生は阪大在学中に戦後の航空部再生に大変力を尽くされた方で、神戸大学に勤めるようになってからは、その志を我々に向けてくださいました。副部長のポストは後年廃止されてしまいましたが、ぼく達との実際の接触は瀬口先生の方が頻繁でした。阪大航空部のOBでもあられたので、昔使っていたと思われるプラセコグライダー(プライマリーとセコンダリーの中間タイプ)が機械棟の地下倉庫にありました。先生は私より一回り上の丑年ですが、最初の頃は助教授、システム工学科が創設された時に若くして教授になられました。

 正確な時期は分かりませんが、私が大学を出て数年後に、古巣である阪大の基礎工学部に移られました。その頃は神大時代の専門分野から少しスライドして、医療にもつながる人工関節の研究をされてました。学生の頃のボクは、合宿とバイトと他校に出没する生活にどっぷり漬かる正真正銘の不心得者で、先生の授業には殆ど出ずに単位も取れず終いでしたが、仕事に就いてからは、待兼山の研究室に時々お邪魔しては喋って帰ってました。学問的な話は殆どせずに他愛のない話ばかりに付き合ってもらえたのは 航空部でお世話になった気安さが幸いしたのかもしれません。そうこうしている内に赤川先生が退官され、その後幾らも経たない内に訃報を耳にするとは…
赤川先生送別会1-vert
阪大航空部のコンパに出た帰りに心筋梗塞で倒れられ、52歳の若さで帰らぬ人になってしまいました。実家のあった武庫之荘で執り行われた告別式に伺った後、多くの知己によって一年がかりで編纂された追悼集に接して 初めて先生の偉大な足跡を知ることになります。失礼にも何と厚かましく仕事の邪魔をしに行ってたのだろう…ってことで恥ずかしながら、追悼文集と寄稿した文面の写真、併せて赤川先生送別会の写真の内で先生の写っているもの(懐かしの写真集CDに入っている)と、下記の形見のペンタックスの写真を掲載します。

先生ご本人もですが、ボクは先生のお家にも、亡くなられてからも、何度か伺って奥さんとも良く話しました。奥さんはその後、神戸大学の留学生センターの仕事に就かれ、丁度この3月で教授としての生活を終えられるとのことです。百年記念館にあった研究室に現役部員を連れて行ったこともありましたね。実は去年のOB会に持参して撮影に使ったカメラは瀬口先生の形見です。バッテリーもない完全マニュアルですが、ちゃんと撮れましたよ。昭和30年代の初期の頃のペンタックスで、筆記具でも何でも良いので先生が使ってられたものを何かいただけないかお願いしたところ、こんなものでいいですかと、譲ってくださいました。何年か後に息子さんから、「お母さん!お父さんの使ってたあのカメラどこへ行ったの?」 と聞かれて返事に困ったそうです。 スミマセン… 

ペンタックス

亡くなられてからもうすぐ25年を迎えます。バブルがはじけてからの世の中、阪神大震災のこと、東北大震災のこと、そして現在も続く神大航空部を、彼岸でどのように観察して居られるでしょうね。

無くなったもの 【その5】 ~ JA2336 ~

01関宿格納庫前-tile110発行直前-tile2











OB会長の宮本です。
神大航空部が導入した二機目の機体、JA2336/Alxander Schleicher式 K13 は、残念ながら我が部からは無くなりましたが、幸いにも共有機として木曽川滑空場に置いてあります。30年近く前の1985年2月、この機体の導入前テスト飛行が千葉県の関宿滑空場で行われました。その時の写真がようやく見つかりましたので紹介します。一連の写真は、寄付お願いの際に紹介しました「★ C01 写真集/航空部懐かしのアルバム」 に、今後入れるように致します。
遠く関宿まで足を運ぶことになった成り行きは忘れてしまいましたが、OBの山内さんが、近くの千葉県流山市から駆けつけて下さいました。最初の一発目は、輸入会社・日本ゼーゲルの伊藤さん?(だったと思う)の操縦で飛ばしたように思います。2発目3発目の搭乗者は覚えていませんが、私は曳航機パイパーの後席に乗せてもらって撮影することができました。写真には残っていないですが、宙返りもやっていた記憶があります。残念ながら、その時点では代金が未決済だったため、山内さんも私も新機には同乗させてもらえませんでした。
偶然ながら、そのころ学連を脱退して活動していた京大航空部が、購入して間もない「ASK21」を関で飛ばし始めていて、丁度その時に一緒になり、ボスの谷君にも久しぶりに会いました。その機体が、現在大野滑空場で飛ばしている、登録番号が3つ前のJA2333です。
昭和60年2月の撮影というと、渡辺君、導入の頃のいきさつをご存じないですか。野沢君の前後のOBは、真新しいASK13に乗った頃の世代だと思うので、その当たりの話をブログに寄せてもらえたら有り難いです。
 
※ 追記
まずは最初の導入機JA2141/三田3型改のことを先に書かねばと思いながら、思い出したりまとめたりが進まず、そちらはまた後ほど・・・

無くなったもの 【その4】 ~ 自動車曳航 ~

CIMG3536
グライダーの発行方法には、
①ゴム索発行(通称パチンコ)
②自動車曳航
③ウインチ曳航
④航空機曳航
の4つがありますが、①は戦後使われることは殆どなくて、私自身も経験がないです。 という事で次に古い②の自動車曳航について、経験がある方はどの位おられるでしょうか。おそらく、私より二年位下の代が最後(昭和45~46年頃)だろう思われます。
 
曳航索は、直径4ミリほどの1本の鋼線(ばねに使われる材料)で、ウインチ用のように細い線をより合わせたものではありません。なので、柔軟性に乏しく反発力が強いので、気をつけて扱わないと怪我の元になります。 繋ぐときは紐のように丸結びにしますが、いくら引っ張っても、結び目は5センチほどまでしか小さくなりません。 ですが、一発飛ばしてしまえば、締まって1~2センチほどの小さな結び目になります。グライダー側は、ウインチ曳航と同様、繊維ロープ(ヒューズ)と環を介してグライダーのレリーズにつなぎ、ショックの吸収と過負荷の際に切れるようにします。
反対側は、接続用の環を介して曳航車のお尻に設けたフックにつなぎます。曳航車は、パワーが要るので、排気量の大きい中古(ポンコツ?)のアメリカ車をよく利用しました。この車は、グライダーをトレーラーで陸送するときの牽引車としても利用できます。(現在は無理ですが、当時は費用を押さえるために、仮ナンバーを取得し短期保険をかけて運行)
合宿では、福井や鳥取、富山などの地方空港の滑走路で、400m余り索を伸ばして引っ張ります。離脱高度は、良くて300mを多少越える位で、無風では300mを下回ります。いくら5000CC級のアメ車とはいえ、加速はゆっくりで、翼端保持者は数十メートル走らないといけません。現在のウインチ曳航の、化学繊維索による出発上昇と比べると、月とスッポンですね。それと、曳航後半ではお尻が持ち上げられるので、予備索をトランクに積んで重りにします。曳航ドライバーは、右手にハンドル、左の窓から顔を出して後ろを見ながらスタート。顔を出したま、グライダーと滑走路前方を交互に確認しながらアクセルを踏み続けます。滑走路エンドが迫ってきたらブレーキを踏んで停止。
ウインチ曳航のように、索は巻き取られず、まともなパラシュートもなく、目印のウエスをくくりつけてあるだけなので、グライダーが索を切り離すと、恐ろしいスピードで落ちてきます。索が滑走路上を蛇行しながら落ち進んでいく様は、実に見ごたえがありました。(動画があればね~)
その後、曳航車は索を切り離してUターンし、グライダー側の索端に向かいます。索の監視員(索監)は、見つけたグライダー側の索端を曳航車のフックにつなぎ、曳航車は滑走路を、注意しながらゆっくりとリトリブしていきます。その間、索監は索がもつれないように、索端が通過するまで左右にほぐす作業を続けます。無風や背風ぎみの時は、曳航車の近くに索が集中して落ちてくるので、ダンゴ状態になり、ほぐすのが大変!ピストまで戻った曳航車は、索を切り離してショルダーに待機し次を待ちます。グライダーが着陸してピスト前まで押し戻されると、機体を押し終わった要員が、索を滑走路の中央に引きずり出します。
その後要員達は毎回出発直前まで、「さ~くてんけん…さ~くてんけん…」と、掛け声を繰り返しながら索の脇を歩き続けます。主に「キンク」と呼ばれる宙返りのような形になっている箇所がないかを調べるのです。キンクがある箇所は、曳航中に索切れを起こすことが多いからです。出発の合図が出ると、点検要員は一斉に滑走路の脇(ショルダー)に退避します。
蛇足ながら、
上の、「さ~くてんけん…」や、搭乗前後の敬礼の掛け声は、皆それぞれ持ち前の節回しがあって、
遠耳にでも、「あれはアイツや!」と、笑えるくらいよく分かったものです。今ではやりませんが、当時は日の入りまで飛ばしたので、薄暗くなると、リトリブ中や出発直後に索が滑走路を摺っていくとき、火花がチラチラ見えて、なんとも綺麗でした。
 
当時を偲んでくれる読者もおられるのではと、ついつい長くなってしまいご容赦を。
 
★参考までに、グライダーのメッカ、ドイツのワッサクッペのミュージアムに出ていた曳航方式の図を掲載します。

無くなったもの 【その3】 ~ 工学部の部室 ~

P1000162P1000183
*** 工学部の部室があったあたりの現在の様子。
  現在は馬場からの遊歩道になっています。
  部室は、ミラーの奥あたりにありました。***

私、宮本は今の航空部が出来てから3期目の部員でした。展示されていた本物のグライダー(実は電気通信大学所有)に目を奪われ、半分だまされて入部した頃は、まだ体育会ではなく、部室もなく、集まるのは学生会館でした。僅かの機材と、昔のグライダーの胴体の残骸が、工学部機械棟の地下倉庫に入れられていました。

入部して二年後位、体育会に昇格した頃、工学部北沿いの道の中ほどに、工学部内で唯一の部室を作らせてもらえることになりました。以前掲載した初代部長の赤川先生や、副部長の瀬口先生の存在が大きかったのでしょう。(瀬口先生のことは、いずれブログで紹介するつもりです。)
先輩達が調達の段取りを進められ、ボクらは専ら力仕事です。伊丹市のどこかのビルの屋上(3~4階建て)にあったプレハブハウスを譲ってもらうことになり、それをバラして、借りたトラックで引き取りに行き、屋上からロープで下ろしたのを覚えています。続いて工学部の設置場所にミゾを掘り、基礎になるコンクリートを人力で練って流し込み、外周にブロックを積みます。その上に軽量鉄骨を組んで、床と壁面パネルをはめ込み、屋根を乗せて形が出来上がります。と書けば簡単ですが、結構な労力です。サイズは今の部室より多少広かったかもしれません。後は、棚やら椅子やら机などの中身を適当に持ち寄りましたが、誰がどこから持ってきたものかは分かりません。建ててしばらく後に、入口に掲げる「航空部」の看板?表札?を設置しましたが、これは、ボクが家にあった廃材から木彫りで作ったもので、卒業後20年以上は掛かってましたかね。縦40cm×幅15cmくらいあったでしょうか。

こうして自分達で建てた愛すべき部室でしたが、二三年後にその場所に計算センターが建つことになり、道路の西の曲がり角のところへ移設することになりました。その際の新しい基礎や、分解再組立は、学校側がやってくれました。当時の工学部には門も何もなく、人も車もいつでも自由に出入りできたので、部室はボンヤリくつろぐのに都合のよい場所でした。残念ながら写真がなくて、どなたか持っている人が居られたら、是非!是非!送って下さいね。データ化が面倒でしたらプリントを私に送ってもらえば、スキャンして返送します。
 
その部室も、いつの頃か国際文化学部(昔の教養部)グランドの北東部に移動して、他のクラブの部室と一緒に集められ建物も新しくなっています。詳しくはブログの、昔と何が違うの?【7発目】~部室など~ に写真と共に出ています。いつごろ移転したのかボクは知らないので、その時のことを知っている人、誰か記事を送ってもらえませんかね。
 
最後に、今後のことも含めて、ボクの記憶も当てにならないので、記事を読まれて「それ違ってるやん!」って箇所が見つかれば、MLなどで知らせて下さいね。 直しますので。
 
少し春の兆しが見えてきましたが、皆さん抜かりなくご用心を!

無くなったもの 【その2】 ~ 国産グライダー ~

三田式Ⅲ型改③(神大工学部グランド)萩原式H-23C(元三重県航空協会)









現在の航空部が出来てしばらく、一番お世話になった機体が、国産の複座機「萩原式H23C」でした。特に、日本航空協会のJA2068と、大阪府大のJA2072は、よく使わせてもらい、
私の初ソロはJA2068、自家用ライセンスの試験機はJA2072でした。車輪ブレーキが無かったので、着陸後の長~い機体押しは、正に体育会そのものだったのを思い出しますね。その頃は、阪大も同志社も同機を所有、シンプルで扱い易くバランスの良い操縦性が美点でしたが、性能的には時代の要請に対応できなくなり、次第に姿を消して行きます。

萩原式H-23C(岐阜大学)-tileその後継機として登場したのが、大きく性能を引き上げた「三田式Ⅲ型」とその改良版でした。神大が初めて購入したJA2141号機も、この改良版です。
 ★蛇足ながら、トップ左の写真で後席にいるのは私。
滑空比は後述のドイツ製K13と大差なく、私は吉井川で1400mまで上がりました。C章を取得したのもこれで、操縦バランスに関してはラダーの効きが少々甘かったですが、我が部の機体は、品質的に最高の出来栄えで、癖もなく非常に好評でした。この機種も、全国的にそこそこの機数が販売されましたが、半端な生産数の域を越えることはなく、品質的な不安定さも拭いきれず、メーカーとして経済的に成り立つのは厳しかったようです。加えて、念のために主翼の強度試験を実施した際に強度不足が判明。運用そのものが一斉に中止に追い込まれてしまいました。

結果として、国産機は急速に姿を消し、代わって、グライダー先進国であるドイツ製の機体が、日本の市場を席巻する時代が到来します。中でも、最も多く導入されたのが、アレキサンダー・シュライハー社の「K13」です。ドイツでの初飛行は1966年、その数年後に日本に初輸入された機体が、現在も大野滑空場で飛んでいる黄色の、元大工大のJA2108です。総生産数は1000機に迫るロングセラーですが、当初は、学連からの強い反対を押し切っての導入だったと聞いています。同じ前進角の主翼を有するポーランド製の、SZDボシアンを購入した関西学院大学が、運用中に事故を起こしたことが響いての反対だったようですが、次第に安定した性能と扱いやすさが浸透し、多くの大学や社会人クラブが導入することになります。関西圏では、我が部が導入するより前に、同志社、立命館、阪大などが導入しています。社会人クラブでは三重県航空協会が購入し、現在も世界中で飛び続ける銘機です。その後に続く最もポピュラーな複座機が、同じくシュライハー社の「K21」で、現在では、この機種が複座スタンダードの座を引き継ぎましたが、今回の話しはここまで。

次回をお楽しみに!

神大航空部の日常
ひよどり声 on Twitter
Recent Comments
Archives
Visitors

    Messages to us
    • ライブドアブログ